合併明け、表紙はブリーチ。
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日本では夜だった。ネットニュースにノルウェーで爆破事件が起こったことが知らされていた。首相府だという。物騒だなあと思いつつ、翌日明けてみると銃乱射で80人以上の死傷者が出たという。流石に表情がひきつり、ノルウェー北欧のくせに怖いな、と思った。首相府が狙われたということは政治的な争いということだし。
事件当初はイスラム系だとかテロ集団との関わりはあるのかだとか調べている、という情報が出ていた。ふたを開けてみれば反イスラム思想のキリスト教右翼ということで、欧米におけるイスラムへの偏見が透けて見えるというものだ。
それから数日、被告の理想的国は日本や韓国だといわれて、その理由はイスラム系の移民が少ないからだという。おかしいものだ。白人だって少ないはずだ。日本に言ってしまえばキリスト教信者はたしか2%だと聞いたことがある。
どっちにしろこんな事件を起こした人に理想だなんていわれるのは迷惑だ。しかもそのあと精神鑑定は日本人に頼みたいとか言い出した。一神教徒の考えが我々に理解できるのだろうか。頼まれたら真面目にやるだろうけども。
被告の発言を聞いたわけではないからわからないけども、被告はただしく「確信犯」であるだろう、と家族と話した。そうすることが正しいと確信して犯行を行う者のことである。
この手の犯人は、実に理性的で計画的である。狂気に陥ってはいない。ただ、思い込みが激しい。んじゃないかと思う。
そして、それが最も一般人からは恐ろしいことである。
狂気に陥っていない。まったく理性的な人間、・・・・は、凶悪犯罪を起こすのである。それは、文明社会をぶいぶいと謳歌している横で、まったく普通の人間が同じように事件を起こすことがあり得るということで、自分だって、その一人だということだ。
それが恐ろしいので、犯人は狂気に陥っている、とはやし立てる。
狂気に陥っていたら、とりあえず日本の法律だと心神喪失で刑に問えなくなったり、心神耗弱で罪が軽減されたりするのに。正気じゃない人の行動に、罪を問うてもしかたないって意味で。
しかし社会的影響の視点で最高刑にはなるのだろうが、精神鑑定は理性的におこなれるべきだ。
100人いる中、99人が選ばない道を選ぶといって、それは狂気ではない。
きわめて計画的な犯行な以上、精神は正常であると判断するべきだ。
とかいろいろ言ってるけど、たいして調べているわけでもないから、専門家が理性的であることに期待しよう。
少なくても、裁判は迅速に行われるべきだ。犯人に悔悛を求めるのに時間が有効であっても、真実を解き明かすには真逆であり、時間は被告の心を摩耗させる。
事件当初はイスラム系だとかテロ集団との関わりはあるのかだとか調べている、という情報が出ていた。ふたを開けてみれば反イスラム思想のキリスト教右翼ということで、欧米におけるイスラムへの偏見が透けて見えるというものだ。
それから数日、被告の理想的国は日本や韓国だといわれて、その理由はイスラム系の移民が少ないからだという。おかしいものだ。白人だって少ないはずだ。日本に言ってしまえばキリスト教信者はたしか2%だと聞いたことがある。
どっちにしろこんな事件を起こした人に理想だなんていわれるのは迷惑だ。しかもそのあと精神鑑定は日本人に頼みたいとか言い出した。一神教徒の考えが我々に理解できるのだろうか。頼まれたら真面目にやるだろうけども。
被告の発言を聞いたわけではないからわからないけども、被告はただしく「確信犯」であるだろう、と家族と話した。そうすることが正しいと確信して犯行を行う者のことである。
この手の犯人は、実に理性的で計画的である。狂気に陥ってはいない。ただ、思い込みが激しい。んじゃないかと思う。
そして、それが最も一般人からは恐ろしいことである。
狂気に陥っていない。まったく理性的な人間、・・・・は、凶悪犯罪を起こすのである。それは、文明社会をぶいぶいと謳歌している横で、まったく普通の人間が同じように事件を起こすことがあり得るということで、自分だって、その一人だということだ。
それが恐ろしいので、犯人は狂気に陥っている、とはやし立てる。
狂気に陥っていたら、とりあえず日本の法律だと心神喪失で刑に問えなくなったり、心神耗弱で罪が軽減されたりするのに。正気じゃない人の行動に、罪を問うてもしかたないって意味で。
しかし社会的影響の視点で最高刑にはなるのだろうが、精神鑑定は理性的におこなれるべきだ。
100人いる中、99人が選ばない道を選ぶといって、それは狂気ではない。
きわめて計画的な犯行な以上、精神は正常であると判断するべきだ。
とかいろいろ言ってるけど、たいして調べているわけでもないから、専門家が理性的であることに期待しよう。
少なくても、裁判は迅速に行われるべきだ。犯人に悔悛を求めるのに時間が有効であっても、真実を解き明かすには真逆であり、時間は被告の心を摩耗させる。
もちろん以前からあったのだが、ヘタリアの爆発的なヒットから擬人化の波も広まった。ステレオタイプが大好きな我々日本人は「~~らしさ」を探るのが面白い。観光にいくのだって、そこの土地らしさ、を見てみたくてうろうろする。イギリス人には紳士ぶりを発揮してほしいし、イタリア人には愛をささやいてほしい。ついでに言えば京都人にはぶぶづけを進められて退散してみたい。
先日京都に旅行したのだが、その前に旅行エッセイを読んだ。その時、舞台となった大阪京都神戸より、では東京らしさとはなんであろう、というのが気にかかった。
筆者はコテコテの地元人に案内してもらったとあったのだが、コテコテの東京人とはなんだろう?
江戸っ子だろうか。それは違う気がする。江戸らしさが東京だと言われたら鼻で笑ってしまうだろう。江戸らしさは良い観光スポットであり、外国人の考える「ニンジャサムライフジゲイシャ」らしさでもある。すでに江戸らしさとは、都市江戸ではなく、江戸時代らしさ、対外的な日本文化らしさなのである。
江戸の間将軍の膝元として100万人都市となった江戸は、徳川の敗北を越えて、それでも首都機能を認められた。東京には地方から人が集まり、少子化の今になっても東京では人口が減らない。
思うに、東京らしさとは、一にそうした集合性と、二に大都市ニッポン、であることだと思う。
東京では世界中から人が集まっても、誰も不思議だとは思わない。観光ではなく。慣れない風習を見て、「そっちではそうなんだ」で終了である。それは他人への無関心でもあるし、十人いたら全員が違う風習をもつのに、いちいちかまっていられない、ということだ。
重要なのは現在互いに共通する問題を解決することであり、それさえわかっていれば支障がない。
東京は世界中から集まった現代を生きるのに忙しく、ひと月も前に終わったことに意識をなげかけたりしない。続いているならなにかニュースで出るだろう。
日本を観光するのに、第一であげるならやはり日本文化の代表選手、京都であると思うのは、私が東京人だからか。実際には日本観光ルートとは、京都と富士山東京、と縦断していくものらしい。フランス旅行の際コートダジュールからモンサンミシェルまで縦断したことを思い出せばなんらおかしいところではない。日本の目玉をちょいちょい拾って過ごしていくわけだ。
イギリスの空港で観光ブックを探してみたら、TOKYOしかなくて失望したが、思えば日本にだってロンドンとしかないのが大概だ。やはりヨーロッパは遠いのかもしれない。
この外からやってくる人たちだが、しばしば日本に慣れきっている。
立ち並ぶコンビニに自販機、地価の高さに物価の高さ。世界中の食べ物が、物が手に入らぬものがないという風潮。ぎゅうぎゅう詰の満員電車、きらきらしい照明。張り巡らされた交通網。
動画に見る日本に慣れきったと思う瞬間、それは東京中のどこでも見られる姿である。
だが、それは本当に日本らしさなのか。それこそ東京らしさ、単なる大都市らしさのように思う。だが、大都市らしくない東京は、けして東京らしくはないのだ。
最近は東京も和物ブームがやってきて、和物小物のお店が立ち並ぶ。雰囲気があって大変好ましい。それもエコの潮流と節電の嵐がやってきて、電気を使わない道を模索したらそうなった、ということなのだが。
ゲームやアニメによって広まった戦国ブームもその一因を担っているには違いない。
だが、それで東京がお国武将らしさを漂わせるか、というのはない。
そもそも東京自体数多の郷土から集まった人でできているわけで、それが共通の武将やら、共通の野球チームやらに盛り上がるわけがない。東京では、隣人の感性が自分と同じとは限らない。祭り好きには変わらないので、祭りなら盛り上がるだろうが。
信玄公を慕うように、家康公を慕うわけがない、というのは別に徳川と江戸のつながりがどうというわけではなく、東京に住むということが、そもそも昔にこだわりを覚えない、ということのような気がする。ひと月前のことすら過去として遠く、まして大戦の大空襲で焼け野原になった東京だ、それ以前はさらに歴史の一文なのだ。
では過去とは、東京らしくない。
現代日本を謳歌する、それこそ東京らしさなのではないか。
それは同時に東京らしさ、とは更新されるものであり、変化するものということだ。
なんと、ここまで書き連ねて東京らしさなんて言いきれない、というのが結論とは驚愕である。家族に東京観光にどこを案内するか、と聞いてみた。
父は皇居に東京タワー。
母は東京ディズニーランド、ディズニーシー。ジブリ美術館。
姉はスカイツリーに秋葉原。築地。
ちなみに私は上野、渋谷や銀座もあげておいた。銀座の店は他の街にあるよりお高そうな外装になっているのが面白いし、上野の美術館密集具合は美術好きには極楽だ。
とりあずディズニーは千葉だが、東京人の概ねが「実は千葉だよディズニー」というネタでありつつも、あまり東京外と意識してないと思うのでおいておく。たぶん東京駅から行くからだろう。
考えるに、東京とは観光地として回るには広すぎる。
先に述べた旅行エッセイの地図をみて驚いたのは、地図が実にコンパクトであることだ。人口が多くない時代に築かれた都市だからだろうか。なんというか狭い。でも狭いので簡単に回れて観光地としてはいいなと思う。23区より狭めて山の手内だけにしたって東京はこんな風には回れない。
その広さのせいか、東京みやげも悩ましい。東京駅を覗いても、正直いつも違うものがあるような気さえする。
東京ばななに困窮を救われて以来東京ばななを特別視しているが、東京ばななはどうひいき目に見てもスポンジにクリームがはいってるだけのお菓子である。それなりに美味しいけども、ひやして食べるほうがおいしい。
それより、東京なら各地より集まった世界中の料理を食べる方がいい気がする。
東京は大空襲により燃えた街であり、戦後の街である。そして世界有数の大都市である。歴史がないことなど誰もがわかっているし、首都である限りは、そんなことは当たり前だ、と気にならないだろう。
私の母などは東京がすごいのは天皇陛下のおひざ元なとこじゃない?とか言っていた。京都人に怒られるかもしれない。でもすまないが皇族が好きな東京人はたいてい「今いらっしゃるのは東京だしー」とか思ってるかもしれない。
皇居周辺はイチョウ並木で秋にはまっきいろになる。とにかくイチョウは葉が多く、地面一面に落ちるので、それは見事な光景である。イチョウは東京の木で、丈夫なので街路樹としてそこらじゅうに見られる。ライトアップが過ぎるとはっぱが枯れるので注意だ。
ここまで東京らしさとは大都会だ、と述べたが、東京に住む者は、東京が別に大都会ばかりではないと知っている。そも大都会らしいところはつまりオフィス街なので働く場所であり、ちょっとお金を使って買い物に行くところなのである。
そう考えると東京らしさとは経済の中心であり、政治の中心であり、ショッピングの中心ということなのかもしれない。
東京らしくない東京は、レトロで昭和の香りがする。慣れていくと、そんなところがやはり真の東京なのだ、と思う気がする。
結局東京人らしいとはなんだろう。なんだか結局わからなかった。
とりあえずスカイツリーはいくけど。3000円でも、まあ飲み会一回いけばそんぐらいだしね。
先日京都に旅行したのだが、その前に旅行エッセイを読んだ。その時、舞台となった大阪京都神戸より、では東京らしさとはなんであろう、というのが気にかかった。
筆者はコテコテの地元人に案内してもらったとあったのだが、コテコテの東京人とはなんだろう?
江戸っ子だろうか。それは違う気がする。江戸らしさが東京だと言われたら鼻で笑ってしまうだろう。江戸らしさは良い観光スポットであり、外国人の考える「ニンジャサムライフジゲイシャ」らしさでもある。すでに江戸らしさとは、都市江戸ではなく、江戸時代らしさ、対外的な日本文化らしさなのである。
江戸の間将軍の膝元として100万人都市となった江戸は、徳川の敗北を越えて、それでも首都機能を認められた。東京には地方から人が集まり、少子化の今になっても東京では人口が減らない。
思うに、東京らしさとは、一にそうした集合性と、二に大都市ニッポン、であることだと思う。
東京では世界中から人が集まっても、誰も不思議だとは思わない。観光ではなく。慣れない風習を見て、「そっちではそうなんだ」で終了である。それは他人への無関心でもあるし、十人いたら全員が違う風習をもつのに、いちいちかまっていられない、ということだ。
重要なのは現在互いに共通する問題を解決することであり、それさえわかっていれば支障がない。
東京は世界中から集まった現代を生きるのに忙しく、ひと月も前に終わったことに意識をなげかけたりしない。続いているならなにかニュースで出るだろう。
日本を観光するのに、第一であげるならやはり日本文化の代表選手、京都であると思うのは、私が東京人だからか。実際には日本観光ルートとは、京都と富士山東京、と縦断していくものらしい。フランス旅行の際コートダジュールからモンサンミシェルまで縦断したことを思い出せばなんらおかしいところではない。日本の目玉をちょいちょい拾って過ごしていくわけだ。
イギリスの空港で観光ブックを探してみたら、TOKYOしかなくて失望したが、思えば日本にだってロンドンとしかないのが大概だ。やはりヨーロッパは遠いのかもしれない。
この外からやってくる人たちだが、しばしば日本に慣れきっている。
立ち並ぶコンビニに自販機、地価の高さに物価の高さ。世界中の食べ物が、物が手に入らぬものがないという風潮。ぎゅうぎゅう詰の満員電車、きらきらしい照明。張り巡らされた交通網。
動画に見る日本に慣れきったと思う瞬間、それは東京中のどこでも見られる姿である。
だが、それは本当に日本らしさなのか。それこそ東京らしさ、単なる大都市らしさのように思う。だが、大都市らしくない東京は、けして東京らしくはないのだ。
最近は東京も和物ブームがやってきて、和物小物のお店が立ち並ぶ。雰囲気があって大変好ましい。それもエコの潮流と節電の嵐がやってきて、電気を使わない道を模索したらそうなった、ということなのだが。
ゲームやアニメによって広まった戦国ブームもその一因を担っているには違いない。
だが、それで東京がお国武将らしさを漂わせるか、というのはない。
そもそも東京自体数多の郷土から集まった人でできているわけで、それが共通の武将やら、共通の野球チームやらに盛り上がるわけがない。東京では、隣人の感性が自分と同じとは限らない。祭り好きには変わらないので、祭りなら盛り上がるだろうが。
信玄公を慕うように、家康公を慕うわけがない、というのは別に徳川と江戸のつながりがどうというわけではなく、東京に住むということが、そもそも昔にこだわりを覚えない、ということのような気がする。ひと月前のことすら過去として遠く、まして大戦の大空襲で焼け野原になった東京だ、それ以前はさらに歴史の一文なのだ。
では過去とは、東京らしくない。
現代日本を謳歌する、それこそ東京らしさなのではないか。
それは同時に東京らしさ、とは更新されるものであり、変化するものということだ。
なんと、ここまで書き連ねて東京らしさなんて言いきれない、というのが結論とは驚愕である。家族に東京観光にどこを案内するか、と聞いてみた。
父は皇居に東京タワー。
母は東京ディズニーランド、ディズニーシー。ジブリ美術館。
姉はスカイツリーに秋葉原。築地。
ちなみに私は上野、渋谷や銀座もあげておいた。銀座の店は他の街にあるよりお高そうな外装になっているのが面白いし、上野の美術館密集具合は美術好きには極楽だ。
とりあずディズニーは千葉だが、東京人の概ねが「実は千葉だよディズニー」というネタでありつつも、あまり東京外と意識してないと思うのでおいておく。たぶん東京駅から行くからだろう。
考えるに、東京とは観光地として回るには広すぎる。
先に述べた旅行エッセイの地図をみて驚いたのは、地図が実にコンパクトであることだ。人口が多くない時代に築かれた都市だからだろうか。なんというか狭い。でも狭いので簡単に回れて観光地としてはいいなと思う。23区より狭めて山の手内だけにしたって東京はこんな風には回れない。
その広さのせいか、東京みやげも悩ましい。東京駅を覗いても、正直いつも違うものがあるような気さえする。
東京ばななに困窮を救われて以来東京ばななを特別視しているが、東京ばななはどうひいき目に見てもスポンジにクリームがはいってるだけのお菓子である。それなりに美味しいけども、ひやして食べるほうがおいしい。
それより、東京なら各地より集まった世界中の料理を食べる方がいい気がする。
東京は大空襲により燃えた街であり、戦後の街である。そして世界有数の大都市である。歴史がないことなど誰もがわかっているし、首都である限りは、そんなことは当たり前だ、と気にならないだろう。
私の母などは東京がすごいのは天皇陛下のおひざ元なとこじゃない?とか言っていた。京都人に怒られるかもしれない。でもすまないが皇族が好きな東京人はたいてい「今いらっしゃるのは東京だしー」とか思ってるかもしれない。
皇居周辺はイチョウ並木で秋にはまっきいろになる。とにかくイチョウは葉が多く、地面一面に落ちるので、それは見事な光景である。イチョウは東京の木で、丈夫なので街路樹としてそこらじゅうに見られる。ライトアップが過ぎるとはっぱが枯れるので注意だ。
ここまで東京らしさとは大都会だ、と述べたが、東京に住む者は、東京が別に大都会ばかりではないと知っている。そも大都会らしいところはつまりオフィス街なので働く場所であり、ちょっとお金を使って買い物に行くところなのである。
そう考えると東京らしさとは経済の中心であり、政治の中心であり、ショッピングの中心ということなのかもしれない。
東京らしくない東京は、レトロで昭和の香りがする。慣れていくと、そんなところがやはり真の東京なのだ、と思う気がする。
結局東京人らしいとはなんだろう。なんだか結局わからなかった。
とりあえずスカイツリーはいくけど。3000円でも、まあ飲み会一回いけばそんぐらいだしね。
京都に行ってまいりました。
以前伏見稲荷の話を聞いてから、ずっと赤い鳥居が山の中を続いていく光景を見てみたいと思っていたのですが、ついに行ってまいりました。
時はおりしも祇園祭、の終わりかけ。祭りをみにいくわけではないのに祭りのシーズンに行くことは愚の骨頂。
今回行ったのは
・舞妓体験
・伏見稲荷
・祇園
・鞍馬・貴船
まずは舞妓体験。予約してGO。襦袢と足袋姿となって、着物を選び、お化粧してもらって・・・・なんというか白いラバーマスクのようになりました。白塗りにするので、日ごろに合わない、と選ばない色も似あいますよ、と言われたので、いつもはあまり着ない緑など。
着付けはいくつかはやはり簡易のもの。長じゅばんと帯は着脱式でした。まあそんなもんですな。
重たいかつらをどっしりのせられ、いざ撮影へ・・・。なにしろ家族三人全員舞妓状態なので、時間がかかるのなんの。
しかし、流石プロです。絵になるポーズというものがわかっています。なるほどなあと思ったり。
傘をもったりお出かけスタイルになったり毬をもったり扇子をもったりします。
家族連れできたので、最後はそろって撮ってもらいました。父を真ん中に入れて、舞妓さん遊びのよーに撮ろうぜ!とか。
自由撮影をきゃわきゃわと撮ったのち、着物を脱いで化粧を落として・・・。次の人に、ブルネットの外国の方が!いいなー身長高い白人女性が着物着るとかっこいいよなみたいわ!と思いつつ・・・一つの懸念をもってちらちら見守る我々。
おねえさん!襦袢の向きが違う!あわせは前!
こうやって着るんですヨー。足袋はこうですヨー。うんこうなるとおもって気にしてた。
写真は綺麗に撮ってもらえてうれしかったです。
そして次は伏見稲荷へ。夕立ぽく襲われつつ・・・。ちらり・・・傘・・。いっそ和傘買って帰るか・・・。いやしかし・・・荷物になるし。
両親を先に宿に帰して、姉と一緒にお山に登ります。けっこうぜーはーなりました。
行く途中ひやしあめなど見つつ・・・帰りにのもうぜ!と進みます。
そして山頂へ・・・。お賽銭がない、と姉。ジュースを買って崩そうとする姉。え。千円はいらない?
山頂記念の手拭いを買いました。そしてポカリを買って、ぐびぐびぐびとカラにします。
書かれている文字の説明ももらいました。一行目の朝夕に、しか読めなかったのですが、「に」がわかったことでおじいさんが驚いていました。私は変体仮名かなーとしかわかりませんでしたが、逆に姉は普通のひらがなのにに読めたようです。
お参りして下山。
鳥居をくぐると・・・そこは不思議の国でした。みたいなかんじでした。
そして暗くなる前に祇園へ。花見小路はなるほど想像する祇園!という様子です。観光用の町でした。母が高台寺の近くのほうが雰囲気がある、というのでそちらのほうに歩いていきますと、高台寺にはこちらの小路、という案内が。そこをくぐると・・・・。
こ、これは・・・・まさに一見さんお断りの気配!!
表札のような、そこだけが明かりがついて人通りもなく、まして街燈もない。たまにタクシーが通り過ぎていく狭い道・・。これはいい雰囲気。
この辺はまじ一見さんおことわり。とか言い合いつつ、高台寺周辺には少しは観光客も入れるようなところはないかと進みます。あったけど・・・。予約でいっぱい。
しかたない花見小路のほうで入ろう、と戻り夕食に。
なんというか・・・・。
全体的に京都はクーラーが強くて寒かったんですが、体が冷えるんでお茶のおかわりください、と言っても全然持ってきてくれない・・・。それだけ混んでて人が足りないのか、単に話を聞く気がないのかどっちだ。
母は概ねごはんの置き方が間違ってる、とか楊枝の置き方が不作法だ、とぷんぷんしてましたが、母はたいていの店でこんなんなんで。上座に座る父から食事を出すべきなのに、とかだっていうので。高級料亭とかじゃないんだから!
なんかクーラー強いよねえ、って言ったら、姉は「節電してないからだよ」って言ってました。えっ、やるとかいってたのは「関東は緊迫感もって節電!ってなってるけど関西にはそれがないから建前で言ってるだけぽい」とか言ってました。そこのところが実際に必要あるの?と言われたりするところなのかな。
鴨川沿いを歩いて帰るとかしたいなあと思ってましたが疲れていたのでタクシーでびゅんと宿まで帰ります。
そいえば両親はつじりで並んでかき氷食べたそうです。商店街って並んでいる商品が違うだけで、どこの街も同じ感じですね。浅草を思い出しました。
さて翌日は鞍馬に向かいます。歩くつもりできてるので全員ズボンと水分なわけです。
電車で乗り継ぎつつ山の中へ。
鞍馬は駅を出た時点ですずしっ!天狗面がお出迎えです。
鞍馬から貴船のルートは入山して山道をゆきます。各所お参りしつつ進むわけです。清少納言も通った道だそうです。
途中、なんだかかっこよく祈っている声が・・・。あの人はきっと、巡礼人に違いない!各所で声をあげ数珠を鳴らしている男性、あの人についていけばきっとその様子が見れるはず・・・・。はず・・・・・。
うん、ついていけませんでした。途中で戻ってくるところをすれ違いました。くすん。
鞍馬は涼しく心が落ち着きます。しかし息はきれます。
なにか甘いものはないかねえ、という親に、残念ながらこんなに登山とは思ってなかったので飴もクッキーももってない、と・・・と・・・?
あ、あったー!
昨日帰るときおみやげに買った和菓子を持ち歩きながら歩いていたわけです。本当はお昼時とかにおやつにしようと持ってきたわけですが。鞍馬のお山で途中途中の休憩にむいたところで、葛饅頭とか食べている家族・・・それは我々でした。
お山を出るとそこは貴船です。
貴船は川ぞいに店があり、細い道を車が大渋滞。どうやらこのあたりは貴船神社にくるか、川床にくるか、なようです。
私も川床で食事をしてみたかったのですが、高かったのでやめたのですが・・・・。
激写はしたよ!
貴船の川床は川の真上に床ができるので、大変雰囲気があっていいですね。
京都は噂通り暑かったんですが、鞍馬や貴船の方は涼しかったです。
帰りに八つ橋を買って帰宅しました。やっぱり京都のお土産はこれがないとしっくりこないです。
京都に行く前に「みとこいっとこトコトコ関西」読んでったので、なにか見るたびに「東京でいうとなんなのかなー」とか考えてしまいました。
東京ばななはある思い出に基づき泣きたいほどの恩恵があるけど、東京土産に東京ばなな、とは到底おもえない。
そういったら、父は「知る人にしか知らない大学由来のお土産とかだと思うよ」と言いました。それじゃあ誰もがおみやと思わないのでは?と聞くと「それが東京土産ってものだよ」といわれました。奥深いな。
レンブラントは好きな画家のひとり!レンブラント展見に行きました。
版画が多かったんですが、面白かったのは刷る紙を変えたものを比較していたところ。
西洋の綿からつくる布や紙と、植物からつくる東洋の紙は全く違って、レンブラントも和紙を使ったりしたようです。
和紙といえばにじみ。インクをよく吸い取る和紙は、細かく彫られた絵の間隔を埋め、濃淡を生み出し、深みが出てきたように思います。
わかりやすく言うと、挿絵であるか、墨絵であるかみたいな。
当時は100枚くらい刷ると印刷できなくなったようですが、初めの版は和紙に刷って愛好家向け。後の方は西洋の紙に刷って廉価版になったりしたそうです。
そういえばコンビニコミックも質の悪い紙使ってるなあ、と思ったりして。
当時日本は鎖国が始まりますが、オランダとはつながっていました。レンブラントもそのために和紙に印刷できたのかもしれません。
今月はSW2.0の聖騎士物語と、ダブクロのトワイライト帰ってきた快男児です。
聖騎士物語はR&Rの連載系で、R&Rを購読していない身としては早く出ないかなーと楽しみにしていました。
トワイライトは荒唐無稽なウィアードエイジ、みんなの天さんGMで進みます。いやー、Tフォードの鋼鉄の走りはいいとこいってましたが、やはり立ち上がれませんでしたねー(ぇ)